サトリと覚醒

とある転換の予感

『老いる』ということで、ふと思うこと

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クリント・イーストウッド

「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「硫黄島からの手紙」など、クリント・イーストウッドの監督作品はいずれも秀逸だ。そして役者としても円熟した演技力がある。90歳の老人であるにも関わらず、内面のかっこよさや魂の輝きなどを演じることができる。もしくは作品化することができる。

 

沢田研二の「勝手にしやがれ」を歌ってた頃の歌番組に出演していたジュリーを最近、YouTubeで観て「あぁ、かっこよかったんだな」と思った。歌も上手いし、色気もあるし、美形だし。それが現在では、反原発運動に精を出したり(反原発が悪いというわけではないが、概ね左翼活動家が利用してる気がするのでそこはどうかと)コンサートの入りが少ないからキレてドタキャンするとか。(沢田研二は、ローリングストーンズのミック・ジャガーに憧れていたらしいが……残念)

 

この違いはなんだろうか、と。クリント・イーストウッドのようにかっこよく老いることもできるし、(老いることで魂の崇高さを表現する力を獲得するような歳の取り方もあるのに)そうでない歳の取り方もある。

どういう生き方を選択するのか、で人生の質は変わる。
「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉は介護の初任者研修で教わる。介護施設でも利用者さんの「クオリティー・オブ・ライフ」を上げましよう、と指導される。

そもそもの話が、介護職員にそういう要求をするか?本人の選択の問題でしょう、と思ったりする。介護職員ができることは、高齢者が人間らしく生きることのサポートな訳で、生き方にまで干渉できない。
(あぁ、このライフは『人生』というより、『生活』ね。でもね、私が以前働いていた介護施設で見たのは、胃瘻をつけて寝たきりで2年も生活(と言えるのか?)させられていたり、老衰の人に無理矢理に食べさせて肉体のライフだけを長引かせたり…生活って肉体だけのものなの? と首を傾げざるえない)
介護の現場で見る歪みは、この社会で生きる人間の生き方の歪みにルーツがあるのかなぁ、とも思う)

 

【追記メモ: 生き方の歪み=死生観の歪み → いかに死ぬか、いかに生きるかの世界観の狂い 3/26】