サトリと覚醒

とある転換の予感

日本人の感性と神観

 あなたは「本当の自分であること」は、たやすいと思っているかもしれない。だが、それはあなたの人生で1番の難題だ。それどころか、決して実現できないかもしれない。本当にそれができる人はごく少ないからだ。まして1度の生涯で成功する人はほとんどいない。多くの生涯をかけてもできないぐらいなのだから。
『神との対話1』9章 200頁

 

 ………私のメッセンジャーは1人残らず、おとしめられてきた。栄光を得るどころか、心痛以外の何も得られなかった。私の真実を語っても、あなたの心は痛まないか?人びとのあざけりに耐えられるか?より大きな魂の栄光を実現するために、地上の栄光を捨てる覚悟ができているか?

『神との対話1』8章より

 

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神について語ることは、狂人のごとき目で見られる。ましてや、私たちが神とどのように接触しているかなんてことを語ったとすれば、怒りかあざけりの反応しかないだろう。

しかし、日本は若干、例外的なところがある。
「一粒の米に七人の神様」と言うように、かまどの神や石ころや草木にも神が宿る、と言う歓声があるからだ。

なので、文学的な比喩として、「風にたなびく梢の上で囀る鳥たちの姿に神々しさを感じた」とか書けば、神との接触は描ける。

しかし、私がここで気にしているのは、「神はどのように私たちを見ているのか?」と言うその感覚である。

神は私たちを包み込むように、魂の内側の内奥の彼方から見ているのだろうか?地球をサッカーボールのような大きさで手に取り、眺め、ピンポイントで拡大して個人に接触してきたりするのだろうか?

キリスト教も神の教義としては、ずいぶん歪められてきたようだし、日本の大和魂と言うのも歪められて、俗化した精神主義の方がある世代に蔓延り、ある世代はその反動で教務主義がはびこっている。

人類や地球の存続を本気で考える人たちはどのくらいいるのだろうか?それを自分ごととして考えられる人は?私たちは、〈落とし穴〉から抜け出せるのだろうか?