サトリと覚醒

とある転換の予感

『県庁の星』を見て地方行政と田舎の自治体の闇について考えてみた⑴

2006年作品 ストーリー 県庁に勤める野村(織田裕二)は200億の介護施設のプロジェクトに関わり、反対する市民グループへの対策に民間への研修派遣される。お役所カラーを押し付けて摩擦を起こす野村。中盤付近で挫折を体験。プロジェクトを外され、婚約者にもフラれ出世の道は消え絶望に打ちのめされる。

映画の8部目あたりで、野村(織田裕二)の問題提起シーンが面白い。まず、野村がプロジェクトから外された200億の介護施設の予算削減案を提言。 「このままでは我が県は倒産します…県の収入の4割が税収。残り6割が国からの地方交付税や補助金に依存。しかし、近い将来地方行政は完全に独立採算となり、我が県は経営破綻となるでしょう」

「行政改革は、組織や制度を変える事じゃない。そこにいる人間たちの意識を変えることなんです。例え、気付くのが遅すぎても、そこから始めて行けばいい。今こそ、自らを顧みて意識を変えるチャンスだと思います」 これに対して議長(石坂浩二)は、「おい!変な市民団体に感化されおって!!何様のつもりなんだ!」と激怒。(問題点を指摘されとエラい人はプライドが傷つけられるのか)議会で飛ばされる野村への野次とともに、地方政治のバイオレンスが醸し出されているセリフだ。

地方自治の問題を考えたくて観た映画だったが、増え続ける国の財政赤字、国家予算を圧迫する肥大化した地方交付税、コロナ禍による税収の縮小…ということを考え合わせると、腐敗・形骸化し、実質的に効果的な機能を果たしていない(ハタラキをしていない)機関は淘汰される運命にあるに違いない。 しかし、正論通りには転換できないのが現実社会のしがらみで、そこには欲と利己心が硬い蔦のように絡み付いている。

野村の問題提起の発言の中にあるように、まずは『自分自身の意識を変える』というのがいい。周りや人を変えようとする必要はない。(周囲は感化されれば自然に変わるものだ。強制されても人は決して変わらない)自分自身の意識を変え、行動する。

国の政治や地方政治、地方行政より身近にあるのが地域の自治体であるが、田舎ほどその力は強いが、形式的で活力もなく、因習的だったりする。およそ『〈コミニュティー〉を機能化する機関』として組織維持されていない。コミニュティーの自治機関がまともに機能すれば住人の暮らしやすさは向上するはずだ。

田舎社会における『行政の下部組織化した、自治公民館を取りまとめる自治協議会組織の運営者の腐敗と組織活動の形骸化』の問題を考える資料として観た行政を扱った映画『県庁の星』だが、国の財政赤字を考えると、地方行政や自治体が独立採算で無駄金を使わないスリムで機能的な組織になるべきだと思われる。 これからの社会を考えると、〈コミニュティ〉は非常に重要性を増す。国が財政難になり、そしてコロナ禍で市民からの税収も減るだろう昨今、形骸化した自治組織は存在意義を失うだろう。

 

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観音ヶ池の桜

 

『老いる』ということで、ふと思うこと

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クリント・イーストウッド

「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「硫黄島からの手紙」など、クリント・イーストウッドの監督作品はいずれも秀逸だ。そして役者としても円熟した演技力がある。90歳の老人であるにも関わらず、内面のかっこよさや魂の輝きなどを演じることができる。もしくは作品化することができる。

 

沢田研二の「勝手にしやがれ」を歌ってた頃の歌番組に出演していたジュリーを最近、YouTubeで観て「あぁ、かっこよかったんだな」と思った。歌も上手いし、色気もあるし、美形だし。それが現在では、反原発運動に精を出したり(反原発が悪いというわけではないが、概ね左翼活動家が利用してる気がするのでそこはどうかと)コンサートの入りが少ないからキレてドタキャンするとか。(沢田研二は、ローリングストーンズのミック・ジャガーに憧れていたらしいが……残念)

 

この違いはなんだろうか、と。クリント・イーストウッドのようにかっこよく老いることもできるし、(老いることで魂の崇高さを表現する力を獲得するような歳の取り方もあるのに)そうでない歳の取り方もある。

どういう生き方を選択するのか、で人生の質は変わる。
「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉は介護の初任者研修で教わる。介護施設でも利用者さんの「クオリティー・オブ・ライフ」を上げましよう、と指導される。

そもそもの話が、介護職員にそういう要求をするか?本人の選択の問題でしょう、と思ったりする。介護職員ができることは、高齢者が人間らしく生きることのサポートな訳で、生き方にまで干渉できない。
(あぁ、このライフは『人生』というより、『生活』ね。でもね、私が以前働いていた介護施設で見たのは、胃瘻をつけて寝たきりで2年も生活(と言えるのか?)させられていたり、老衰の人に無理矢理に食べさせて肉体のライフだけを長引かせたり…生活って肉体だけのものなの? と首を傾げざるえない)
介護の現場で見る歪みは、この社会で生きる人間の生き方の歪みにルーツがあるのかなぁ、とも思う)

 

【追記メモ: 生き方の歪み=死生観の歪み → いかに死ぬか、いかに生きるかの世界観の狂い 3/26】

日本人の感性と神観

 あなたは「本当の自分であること」は、たやすいと思っているかもしれない。だが、それはあなたの人生で1番の難題だ。それどころか、決して実現できないかもしれない。本当にそれができる人はごく少ないからだ。まして1度の生涯で成功する人はほとんどいない。多くの生涯をかけてもできないぐらいなのだから。
『神との対話1』9章 200頁

 

 ………私のメッセンジャーは1人残らず、おとしめられてきた。栄光を得るどころか、心痛以外の何も得られなかった。私の真実を語っても、あなたの心は痛まないか?人びとのあざけりに耐えられるか?より大きな魂の栄光を実現するために、地上の栄光を捨てる覚悟ができているか?

『神との対話1』8章より

 

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神について語ることは、狂人のごとき目で見られる。ましてや、私たちが神とどのように接触しているかなんてことを語ったとすれば、怒りかあざけりの反応しかないだろう。

しかし、日本は若干、例外的なところがある。
「一粒の米に七人の神様」と言うように、かまどの神や石ころや草木にも神が宿る、と言う歓声があるからだ。

なので、文学的な比喩として、「風にたなびく梢の上で囀る鳥たちの姿に神々しさを感じた」とか書けば、神との接触は描ける。

しかし、私がここで気にしているのは、「神はどのように私たちを見ているのか?」と言うその感覚である。

神は私たちを包み込むように、魂の内側の内奥の彼方から見ているのだろうか?地球をサッカーボールのような大きさで手に取り、眺め、ピンポイントで拡大して個人に接触してきたりするのだろうか?

キリスト教も神の教義としては、ずいぶん歪められてきたようだし、日本の大和魂と言うのも歪められて、俗化した精神主義の方がある世代に蔓延り、ある世代はその反動で教務主義がはびこっている。

人類や地球の存続を本気で考える人たちはどのくらいいるのだろうか?それを自分ごととして考えられる人は?私たちは、〈落とし穴〉から抜け出せるのだろうか?