サトリと覚醒

とある転換の予感

日記

録画してたLGBTのパレードの番組を見る。南さんという人だったかな。カミングアウト〜LGBTパレードの主催へ、といった敬意をたどるドキュメンタリー。

この30年ほどの間に、同性愛者や性同一性障害に対する差別意識は改善されたと思うのだけど、この方のような人の苦労があったんだな、と思う。ある程度社会的認知が広がってはいるけど、まぁ、今でも当事者の人はそれなりの苦労はあるのだろう、と思う。しかし、〈運命が与える試練をどう生きるか?〉ということに関しては、精神的少数者も同じというか、生きる厳しさに晒されている訳で。

社会の制度を変える、という方向への運動を持って行くのは疑問。

日本におけるLGBT運動に割りに穏やかなので、それはそれで、という感じだが、アメリカでのそれは文化マルクス主義的なイデオロギーや政治に利用されているところがあるようで、それに関して問題を感じる。
例えば、黒人のゲイのカップルが、白人のキリスト教徒のケーキ屋さんにウェデングケーキを注文したが、信仰上の理由で断ったところ、裁判でケーキ屋さんが処罰される、というような行き過ぎた判決がアメリカではあった。(キリスト教では同性愛は禁止されている)信仰の自由は認められず、いわゆるマイノリティの権利が優先された、という事例だが、信仰や伝統に対する破壊的意志を持ったイデオロギーにアメリカが侵食されていうのを感じる。

LGBTを差別しない、というのは結構なことだが、それがイデオロギー化すると結構怖い。

 

続いて、ロシアを自転車で旅する元新聞記者の冒険家のドキュメンタリーで、農場などで共産主義時代と現代の違いなどをインタビューしていて、その生の声が興味深かった。

・共産中国とソ連の違い(民族性の傾向としてロシアの方が物質主義的ではない傾向)

・消費文明の蔓延で「精神を失った」という声。

など、考えされた。思うに、自由市場経済というのは経済システムとしては、自生的なものでそれ自体に問題がある訳ではなく、グローバリスト(投資家のジョージ・ソロスのような人)のオープン・ソサエティのような思想が人々の精神を退廃させているような気がする。

資本主義と法の支配 はセットであるべき(この『法』とは信仰、伝統的精神性、道徳などを含む)